自由が丘サクラバルでタクヤと話した内容のメモ。プロダクトデザイン、日本ものづくり、教育とコミュニケーションについて。
政治におけるPR
今後の世の中では「個人単位でのPR能力が求められる」と思う。なぜかというと、従来のように企業や組織単位ではなく、個人レベルで情報を相互にやり取りする機会が増える時代になってきているから。企業の権力者はSNSを使わざるをえなくなる一方、個人レベルでのPRコンサルタント業務の需要が一気に高まる事は間違いない。
そこで日本のリーダー達の現状はどうだろう。とりあえず政治家はPR力が本当に低い。謝罪会見などでは謝った後であとでその理由を述べないがためにイメージのアップになっていない。「記憶にございません」などという答えを棒読みするのみ。一方米国のObama大統領、Obama PR teamには優れたスタッフが本当に大勢いる。”Change”の演説にはスピーチ作法のディレクターから、原稿を書いた作家など専門分野ごとに担当者が配備されてPR戦略を徹底している。”Change”の原稿を書いた作家はノマドワーカーで「アメリカの全国民を動かすスピーチをスターバックスで書いた」そうだ。では日本とアメリカの政治におけるPRの実態の違いはどこにあるのか。それは日本の政治社会にはPR会社が自由な戦略を実行できないほどのしきたりがあるからだ。それぞれの党のポリシーがPR戦略立案から実行に移るまでのプロセスに大きくマイナスの意味で関与しているのではないか。
歴史から見るブランド構築
例えば「トヨタを描いて下さい」と言われて、かける人はそうそういないのでは。なぜかというとトヨタはデザインを頻繁に変えるからだ。一方ヨートヨタロッパのフェラーリ、ランボルギーニ、ベンツなどはそのデザインの軸がぶれずに今でも車をデザインし続けている。会社のロゴから車のボンネットの形まで、長い歴史の中で守り続けてきたデザインに対する美学がある。この美学の違いはどこから来るのだろう。一つはおそらく「お客様は神様」文化から来ているはずだ。もう一つはプロダクトデザイナーを尊重しない文化。前者に関しては、プロダクトのデザインを顧客ニーズに合わせて行く形式がネックとなる。ケータイのガラケーにも見られる流れだが、日本人のモノ作りは技術革新が先攻するばかりでモノの見せ方(広い意味でのデザイン)を販売戦略に組み込んで考えない。また後者に関してはこんなエピソードがある。フェラーリは実は車のエンジンを作っているだけで、外観のボディはイタリアピニンファリーナ社(デザイン会社)がやっていて、そこの奥山清行氏がエンツォを始めとする車のデザインを手がけた。ただこれは日本ではあまり大々的に取り上げられない。ホンダなどでも車のプロダクトデザイナーがこの世に名を残す事がない。日本ではプロダクトデザインはあくまでもチームとして認識され、映画の監督のような形でデザイナー個人の業績として世の中に出ない。
絶対視される日本の教科書文化と、方法論を考えさせる欧米の教育
日本の教育文化には世界に通用しない実に残念な価値観がある。なんでもかんでも年上を敬う風潮。能力の低い年上が「能力がある」呈で年下の教育をしょうがないから教科書を使って担うケースが多々見られる。昔から「この先生バカなんじゃないかな」と思う事が良くあった。仮にある授業で教師の話が生徒に伝わらない時に、それは教師の伝達能力に問題があるとはならない事が多い。
ロンドンの小学校では「プロセスを考える」教育方針が多かったなーと改めて思う。帰国した瞬間に「良い国作ろう鎌倉幕府」などを暗記するのみ。まずそもそもその暗記する事の目的がまったく見えなかった。教育の根本的な部分が見えてないなーと。オレが英語の試験で90何点とった時の「ここはセンテンスの最後にピリオドを書き忘れたから減点なんです」もインパクトがでかかった。バカかと。オレより発音もしゃべれる単語数的にもはるかに劣るでしょって。
ここの会話で一番考えたのが、今後世界にジャパニーズ職人文化は通用するのか、というトピックだ。今までの成功体験(ナントカ道)を今後も引き継いでいきましょう、という意見もあるが、大事なのは100年後の世界を見据えたPR戦略なんじゃないかなと。例えばミシュラン。有名なタイヤメーカーの同社だが、各地のおいしいレストランを星ランク付けして紹介すれば車に乗る人が増え、タイヤが売れると。これを100年以上やっている。またGuiness beerとGuiness World Recordsも超長期的なPR戦略を踏まえた上での企画だ。長い間同じ目的に向かって信念を曲げずに行動に落とし込んで行く事が大きな力と絶対的な文化力を生む。
あとこの5倍ぐらい話した気もするけど忘れたー。もったいない。タクヤ覚えてたら追記よろしく!!