主観と客観

「魔女狩り」やガリレオの研究批判など、宗教が絶対的な権力をもっていた時代があった。当時は現実の事実(fact)など信じていいものではなく、宗教上それが正しい時のみ現実であるとした。
現代で考えるとバカバカしく聞こえる。重い球のほうが軽い球より速く地面に落ちる時代だ。

現代では宗教は数多くあるものの、大多数が論理で成り立つ世界で経済活動をし日々暮らしている。だから経済学や経営学が発達し、主観的な要素が極力排除されて物事を考えるプロセスが重視されている。
今受けているインターン・・・コンサル、HR、金融、業種問わず客観的で論理的な思考を求められる。でないとビジネスが成り立たない。結果(Conclusion)を出すためにそれの理由(Reason)、およびその裏付けとして事実(Fact)の提示が必要になってくる。このCRF法則は現代社会で説得力のある文脈にはかかせない要素だ。

昔はConclusionを出すためにReasonとして「神様が言うから」で終わるケースが多かったのかもしれない。つまりFactもReasonも同じ次元のものだった。しかし、多種多様の宗教が混ざる今の世界ではCRFの3段階がないとモノゴトが通じない。世界基準がつくれない。

主観視(神による)の時代→客観視(論理)の時代ときて、今後はまたさらに違う見方で基準が作られる気がする。

2 thoughts on “主観と客観

  1. 論理について思ったこと論理を組み立ててたどり着くゴールは一つじゃないよね。論理を使う人々は個人の倫理観で論理を組み立てていくから、同じ出発点からスタートしても、違うゴールにたどり着く。たとえば、人を殺す論理が成り立つ時もあれば、そうでないときもある。それはトミーも前にいってた、人間世界が1か0のコンピューターの世界ではないから。論理は客観的に物事を判断する時に使われる事があるけど、人間が使う以上は、主観が交じってしまうんだろうな。って思った。主観ってのは倫理観とくっついてると思ってるから、仮に人々の倫理観が統一されてたら、論理によって導かれる答えも統一されそうな気がする。人を絶対に殺さないという倫理を持ってる人は、復讐だろうとサバイバルだろうと、人を殺さない。みたいな。もちろんこのコメントも僕の主観によって組み立てた論理なのかな。言葉遊びみたいでごめん。w最終的に何が言いたいかって、政治やら科学やら経済やら、論理が活きる業界とそうでない場面があるんだろうなってことです。

  2. もちろん人間の頭の数だけ論理構成が生まれてくるのは間違いないと思う。たぶんだからこそ人は法律を作ろうとしたんだろうね。主観を排除して国民全員で共有する論理(決まり事)が必要になるんだろうな~ってそう考えると昔も今も変わらないのかもね。以前の神様の言葉が現代の法律に置き換えられてるだけなのかも。

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